2009年08月18日
1990年のRCサクセション
『the TEARS OF a CLOWN/RCサクセション』
1990年の夏、僕は大学の4年でバイトの休みをとって旅に出た。
お決まりの青春18切符で鈍行や夜行を乗り継いで東北まで足を伸ばした。いちばんの目的は遠野だった。その頃の僕は民話に興味があったのだ。遠野で何をしたのか、たいして覚えていないのだけど、かっぱ淵へ行ったり、猿ヶ石川(まだフライははじめていなかった!)の近くを歩いた。その後、花巻や蔵王にもまわって、最後の日、1990年9月1日に東京に着いた。
昼間は国立近代美術館で開催されていた手塚治虫展を観て、夕方には日比谷公園の野外音楽堂へ行った。その日はRCサクセションのライブがあったのだ。
当時、RCは夏に日比谷野音で、クリスマスに武道館でライブをするのが恒例になっていた。その年の野音は9月1日・2日・8日・9日の4日開催で、既にG2も新井田耕造も居なかった。急に思い立った旅だったし、チケットはもちろんなかったから、野音の外のベンチに座って、開演から終りまでずっと聴いていた。僕の他にも会場にはいれなかったファンが大勢いた。
会場からこぼれる演奏の音と清志郎の声。観客の歓声がうらやましかった。だけど、その状況は悪くなかった。自分で云うのも面映いのだが、ここちのよい夜だった。
就職や将来に対する不安はあったけれど、僕は僕の道を歩いていた。ひとりで東北をまわり、東京に着き、RCの野音ライブを会場の外から聴いていた。それはなかなかよい気分だったのだ。
そして僕は夜行に乗り、次ぎの日、京都に戻ってきた。
この年の暮れにRCの活動が停止した。野音のライブは『ミラクル』としてビデオでリリースされた。
あの夏からもう19年の月日がたつのだ。
清志郎の死から、3ヶ月が過ぎてしまった。その間にもいろいろなひとが死んで、その度に僕は呆然としたり、愕然とするのだけど、やっぱりその衝撃の重さと深さは清志郎の比ではない。でも僕は清志郎の居ないこの世界で、息をしたり、喧嘩をしたり、愛しあったりしている。そして明日も朝になると起きて、夏の日射しにうんざりしながら、歯をみがき、顔を洗って、仕事にいくのだ。
あの夏の僕と、今の僕は確かに繋がっている。僕の過去と現在と、未来は断絶することがなく繋がっているのだ。
そして今も好きなときに、僕は清志郎の歌を聴くことができる。好きな曲がたくさんあって、清志郎の声と歌に何度でも感情を揺さぶられる。聴く度に新鮮な気持ちになれるのだ。
2009年07月28日
よそ者

『BLUE / RCサクセション』
“俺たちよそ者”と歌われるとき、俺たちとは清志郎とRCと僕のことだった。
昔、僕はひとりぼっちだった。でもRCやいくつかの音楽を聴いているときや本を読んでいるときはひとりではなかった。
音楽を聴くことや本を読むことはひとりでする行為だけど、その行為に没頭しているときは決してひとりではなかった。音楽や本が僕の心の奥に届いたとき、現実の関係や軋轢、周囲の時間から僕は自由になった。自由だけどひとりではなく、その表現を通じて僕は世界と繋がっていた。
もしかするとそれは現実からの柔らかい逃避でしかなかったのかも知れないけれど、僕は、僕が選んでその時間を過ごすことができたので、今もこうして息をしていられるのだ。
“何から何まで君がわかっていてくれる/僕の事すべてわかっていてくれる/上から下まで全部わかったいてくれる”
「君が僕を知ってる」
“地べたに落とされて/すべてをはがされて/逃げまわらなきゃならない時/かくまってくれるかい?ぼくを/ベッド・ルームだけのsの部屋に/かくまっておくれよ/ぼくには何にもできない/ぼくには説明できない”
「共犯者」
僕は弱虫で泣き虫でナイーブな子どもだった。その頃は、そういう自分をネガティブな感情でしか捉えることができなかったけれど、僕は弱虫で泣き虫でナイーブな子どもだったから、清志郎の歌に出会うことができたのだ。
清志郎が死んでしまっても、その歌が世界を縁取り、今も清志郎の声が、僕の感情の底で静かに流れている。
ところで「よそ者」で唐突に歌われる“けむる港町”というフレーズがロックっぽくなくていつも気になってしまいます。いわゆるロック的な言葉からも清志郎は自由だったのだと肯定することもできるかも知れないけれど、やっぱりおかしいよな。
2009年07月12日
キング・オブ・ライブ

『THE KING OF LIVE / RCサクセション』
80年代、キング・オブ・ライブと云われたRCサクセションを僕は一度しか観ていません。88年12月23日の大阪厚生年金会館大ホールのコンサートです。
カバーズ騒動があった年の冬のツアー(確か当時のRCは夏の野音とクリスマスの武道館が定番だったはずだ)で、はじめて観るRCに僕は圧倒的された。でもそれははじめてRCを生で観た悦びとは違っていた。
清志郎はカバーズ騒動からずっと溜め込んでいた鬱屈を吐き出すかのようにとげとげしくて、怒りに満ちていた。最期に「愛してまーす」じゃなく、「ざまあみやがれ」と言い放ちライブが終わった(ような記憶がある)。僕はもう完全に打ちのめされ、かってないほどココロを揺さぶられて、わけもわからないまま泣いてしまった。嗚咽がまわりに聞こえるほど涙を流した。しばらく椅子から立ち上がることができなかった。
そのとき、僕のココロに穿たれたRCと清志郎の刻印が、清志郎が亡くなってからこんな記事を書かせているのだ。
そのとき、やっぱりRCはすごい!RCのライブは全部観ないとダメだと思ったはずなのだが、僕の興味はボ・ガンボスとニューエストに移っていってしまい90年にRCは解散してしまう。
その後、清志郎はタイマーズのときと、メンフィスツアーのときに観たのだけど、僕は全然冷静だったのだ。
RCのオリジナルアルバムで唯一持っていないのが『THE KING OF LIVE』で、6月の頭頃、アマゾンで注文したのだけど、まだ届きません。何種類かあるなかで紙ジャケのを注文したのだけど、今はそのときの倍以上の値段になっています・・・。
2009年06月30日
「ありがとう!忌野清志郎 追悼上映」

やっぱりRCSは企画してくれました。
清志郎が出演した映画を集めた「ありがとう!忌野清志郎 追悼上映 ~こんな映画も見なよ~」が開催されます。
▼7月2日 10:30~『たみおのしあわせ』
20:15~『たみおのしあわせ』
▼7月3日 10:30~『お墓と離婚』
20:15~『チキン・ハート』
▼7月4日 10:45~『不確かなメロディー』
20:15~『お墓と離婚』
▼7月5日 20:15~『不確かなメロディー』
▼7月6日 20:15~『不確かなメロディー』
▼7月7日 19:00~『お墓と離婚』
21:00~『チキン・ハート』
▼7月8日 19:00~『お墓と離婚』
21:00~『チキン・ハート』
▼7月9日 19:00~『不確かなメロディー』
▼7月10日 19:00~『不確かなメロディー』
7月2日からの9日間。毎日でも通いたいくらいなのですが、2000年のラフィータフィーのツアーを追ったドキュメント『不確かなメロディー』だけは観にいかねば、と考えています。
パンフレットとかも売ってたらいいのにな。
■みなみ会館HP
2009年06月20日
『初期のRCサクセション』のデモテープが聴きたい

『初期のRCサクセション/RCサクセション』
僕の持っている『初期のRCサクセション』のCDは『楽しい夕べ』と2枚組セットになっている。オリジナルツイン・シリーズというものでCDが普及し始めた頃に尺の短いLPをセットにしてリリースしていたのだ。2枚組で4,400円なので、たいして安くもない。
ライナーノーツが入っていて(LP発売時のものと同じものなのだろう)、メンバーの誕生日や出身高校や身長、体重まで記載されているのが70年代初期を思わせておかしい。なんとなくニューミュージックっぽい扱いなのだが、ファーストは清志郎の声以外が全部スタジオミュージシャンのものに差し替えられたくらいなので、ホリプロのイメージ戦略みたいなものもあったのかも知れない(RCのメンバーが録音したファーストのデモテープはないのだろうか?)。
とはいえファーストからRCサクセションはRCサクセションであり、忌野清志郎は忌野清志郎以外の何者でもない。
「たまには一人で 何かやってみろよ/いつでもみんなといっしょなんだね」(シュー)、「たとえお客がいやな奴ばかりでも/ぼく達はいつもいっしょうけんめい/歌っています」(メッセージ)、「あの娘に会えない時は この娘に会おう/この娘に会えない時は あの娘に会おう/恋人が二人いると いつも幸福」(国王ワノン一世の歌)、「金さえあればこの世の物は/何でも手に入れられるのさ/幸福だって女だって金で買えない物はない」(この世は金さ)と挑発的だ。
そして「本当の事なんか言えない/言えば殺される」(言論の自由)と歌うのだ。
清志郎の誕生日は4月2日なので、あと一日早く生まれていればリンコさんや破廉ケンチと学年が違い、RCに繋がる「ザ・クローバー」は結成されなかったのかも知れない。
清志郎が亡くなってはや四十九日が過ぎようとしている。まったく個人的なことなのだが清志郎は僕の息子の誕生日に亡くなった。これからずっと、息子が誕生日を迎える度に、清志郎が死んだ日のことを僕は思い出すのだ。
2009年06月10日
こんな夜におまえに乗れないなんて
「MARVY/RCサクセション」
いつの頃からか清志郎は自転車にはまって、今月の「BE-PAL」でも「ありがとう清志郎さん!あなたの旅は、ブルースでした」と追悼される始末だ。健康的でアウトドアな清志郎は、乗り物をセックスと絡めて歌にするのが得意だった清志郎のイメージとかけはなれている。
こんな夜におまえに乗れないなんて
こんな夜に発車できないなんて
「雨上がりの夜空で」
おまえのエアポートに着陸したい
ホラもう滑走路はこんなに濡れて
「スカイ・パイロット」
“バッテリーはビンビンだぜ”だとか、“エンジンの性能をためしてみないか”だとか、清志郎はわかりやすかった。
『MARVY』におさめらている「 SHELTER OF LOVE 」でも“いくら僕のマシンがよくてもだめさ”“ぼくをシェルターのなかに/入れて入れておくれよ/君のシェルターのなかに/入れて入れておくれよ”と歌うのだ。
70年代の売れない時代をどうにか生き延びた清志郎はRCサクセションを再生させるために、ステージ上では派手にメイクをして、誰よりも高くジャンプして、「愛してまーす」と叫んだ。そしてセックスをイメージさせるような歌を、これはいいアイデアだとばかりに歌わずにいられなかったのだ。
乗り物とは関係ないけれど、梅津和時率いるDANGERのアルバムにおさめられた「貴女のお嬢さんに」が好きだ。これもわかりやすくて何度聴いてもにやにやしてしまう。
貴女のお嬢さんによろしくお伝えください
息子が会いたがっています
この次お会いする時は草原のその奥に息子を
連れて行こうと思います。
ララララ……息子が会いたがって泣いてます
「貴女のお嬢さんに/DANGER」
やさしいピアノと清志郎の声にフリーキーなベースとホーン、ドラムが静かに絡み合う名曲なのだ。