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もりのおく
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森の奥で考えたこと
ja
Tue, 18 Aug 2009 02:07:05 +0900
Sun, 28 Apr 2013 13:09:05 +0900
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1990年のRCサクセション
『the TEARS OF a CLOWN/RCサクセション』
1990年の夏、僕は大学の4年でバイトの休みをとって旅に出た。
お決まりの青春18切符で鈍行や夜行を乗り継いで東北まで足を伸ばした。いちばんの目的は遠野だった。その頃の僕は民話に興味があったのだ。遠野で何をしたのか、たいして覚えていないのだけど、かっぱ淵へ行ったり、猿ヶ石川(まだフライははじめていなかった!)の近くを歩いた。その後、花巻や蔵王にもまわって、最後の日、1990年9月1日に東京に着いた。
昼間は国立近代美術館で開催されていた手塚治虫展を観て、夕方には日比谷公園の野外音楽堂へ行った。その日はRCサクセションのライブがあったのだ。
当時、RCは夏に日比谷野音で、クリスマスに武道館でライブをするのが恒例になっていた。その年の野音は9月1日・2日・8日・9日の4日開催で、既にG2も新井田耕造も居なかった。急に思い立った旅だったし、チケットはもちろんなかったから、野音の外のベンチに座って、開演から終りまでずっと聴いていた。僕の他にも会場にはいれなかったファンが大勢いた。
会場からこぼれる演奏の音と清志郎の声。観客の歓声がうらやましかった。だけど、その状況は悪くなかった。自分で云うのも面映いのだが、ここちのよい夜だった。
就職や将来に対する不安はあったけれど、僕は僕の道を歩いていた。ひとりで東北をまわり、東京に着き、RCの野音ライブを会場の外から聴いていた。それはなかなかよい気分だったのだ。
そして僕は夜行に乗り、次ぎの日、京都に戻ってきた。
この年の暮れにRCの活動が停止した。野音のライブは『ミラクル』としてビデオでリリースされた。
あの夏からもう19年の月日がたつのだ。
清志郎の死から、3ヶ月が過ぎてしまった。その間にもいろいろなひとが死んで、その度に僕は呆然としたり、愕然とするのだけど、やっぱりその衝撃の重さと深さは清志郎の比ではない。でも僕は清志郎の居ないこの世界で、息をしたり、喧嘩をしたり、愛しあったりしている。そして明日も朝になると起きて、夏の日射しにうんざりしながら、歯をみがき、顔を洗って、仕事にいくのだ。
あの夏の僕と、今の僕は確かに繋がっている。僕の過去と現在と、未来は断絶することがなく繋がっているのだ。
そして今も好きなときに、僕は清志郎の歌を聴くことができる。好きな曲がたくさんあって、清志郎の声と歌に何度でも感情を揺さぶられる。聴く度に新鮮な気持ちになれるのだ。
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RCサクセション、忌野清志郎
Tue, 18 Aug 2009 02:07:05 +0900
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よそ者
『BLUE / RCサクセション』
“俺たちよそ者”と歌われるとき、俺たちとは清志郎とRCと僕のことだった。
昔、僕はひとりぼっちだった。でもRCやいくつかの音楽を聴いているときや本を読んでいるときはひとりではなかった。
音楽を聴くことや本を読むことはひとりでする行為だけど、その行為に没頭しているときは決してひとりではなかった。音楽や本が僕の心の奥に届いたとき、現実の関係や軋轢、周囲の時間から僕は自由になった。自由だけどひとりではなく、その表現を通じて僕は世界と繋がっていた。
もしかするとそれは現実からの柔らかい逃避でしかなかったのかも知れないけれど、僕は、僕が選んでその時間を過ごすことができたので、今もこうして息をしていられるのだ。
“何から何まで君がわかっていてくれる/僕の事すべてわかっていてくれる/上から下まで全部わかったいてくれる”
「君が僕を知ってる」
“地べたに落とされて/すべてをはがされて/逃げまわらなきゃならない時/かくまってくれるかい?ぼくを/ベッド・ルームだけのsの部屋に/かくまっておくれよ/ぼくには何にもできない/ぼくには説明できない”
「共犯者」
僕は弱虫で泣き虫でナイーブな子どもだった。その頃は、そういう自分をネガティブな感情でしか捉えることができなかったけれど、僕は弱虫で泣き虫でナイーブな子どもだったから、清志郎の歌に出会うことができたのだ。
清志郎が死んでしまっても、その歌が世界を縁取り、今も清志郎の声が、僕の感情の底で静かに流れている。
ところで「よそ者」で唐突に歌われる“けむる港町”というフレーズがロックっぽくなくていつも気になってしまいます。いわゆるロック的な言葉からも清志郎は自由だったのだと肯定することもできるかも知れないけれど、やっぱりおかしいよな。
https://lkv.kyo2.jp/e123506.html
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RCサクセション、忌野清志郎
Tue, 28 Jul 2009 02:08:55 +0900
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キング・オブ・ライブ
『THE KING OF LIVE / RCサクセション』
80年代、キング・オブ・ライブと云われたRCサクセションを僕は一度しか観ていません。88年12月23日の大阪厚生年金会館大ホールのコンサートです。
カバーズ騒動があった年の冬のツアー(確か当時のRCは夏の野音とクリスマスの武道館が定番だったはずだ)で、はじめて観るRCに僕は圧倒的された。でもそれははじめてRCを生で観た悦びとは違っていた。
清志郎はカバーズ騒動からずっと溜め込んでいた鬱屈を吐き出すかのようにとげとげしくて、怒りに満ちていた。最期に「愛してまーす」じゃなく、「ざまあみやがれ」と言い放ちライブが終わった(ような記憶がある)。僕はもう完全に打ちのめされ、かってないほどココロを揺さぶられて、わけもわからないまま泣いてしまった。嗚咽がまわりに聞こえるほど涙を流した。しばらく椅子から立ち上がることができなかった。
そのとき、僕のココロに穿たれたRCと清志郎の刻印が、清志郎が亡くなってからこんな記事を書かせているのだ。
そのとき、やっぱりRCはすごい!RCのライブは全部観ないとダメだと思ったはずなのだが、僕の興味はボ・ガンボスとニューエストに移っていってしまい90年にRCは解散してしまう。
その後、清志郎はタイマーズのときと、メンフィスツアーのときに観たのだけど、僕は全然冷静だったのだ。
RCのオリジナルアルバムで唯一持っていないのが『THE KING OF LIVE』で、6月の頭頃、アマゾンで注文したのだけど、まだ届きません。何種類かあるなかで紙ジャケのを注文したのだけど、今はそのときの倍以上の値段になっています・・・。
https://lkv.kyo2.jp/e119356.html
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RCサクセション、忌野清志郎
Sun, 12 Jul 2009 02:04:08 +0900
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「ありがとう!忌野清志郎 追悼上映」
やっぱりRCSは企画してくれました。
清志郎が出演した映画を集めた「ありがとう!忌野清志郎 追悼上映 ~こんな映画も見なよ~」が開催されます。
▼7月2日 10:30~『たみおのしあわせ』
20:15~『たみおのしあわせ』
▼7月3日 10:30~『お墓と離婚』
20:15~『チキン・ハート』
▼7月4日 10:45~『不確かなメロディー』
20:15~『お墓と離婚』
▼7月5日 20:15~『不確かなメロディー』
▼7月6日 20:15~『不確かなメロディー』
▼7月7日 19:00~『お墓と離婚』
21:00~『チキン・ハート』
▼7月8日 19:00~『お墓と離婚』
21:00~『チキン・ハート』
▼7月9日 19:00~『不確かなメロディー』
▼7月10日 19:00~『不確かなメロディー』
7月2日からの9日間。毎日でも通いたいくらいなのですが、2000年のラフィータフィーのツアーを追ったドキュメント『不確かなメロディー』だけは観にいかねば、と考えています。
パンフレットとかも売ってたらいいのにな。
■みなみ会館HP
https://lkv.kyo2.jp/e116653.html
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RCサクセション、忌野清志郎
Tue, 30 Jun 2009 22:17:57 +0900
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『初期のRCサクセション』のデモテープが聴きたい
『初期のRCサクセション/RCサクセション』
僕の持っている『初期のRCサクセション』のCDは『楽しい夕べ』と2枚組セットになっている。オリジナルツイン・シリーズというものでCDが普及し始めた頃に尺の短いLPをセットにしてリリースしていたのだ。2枚組で4,400円なので、たいして安くもない。
ライナーノーツが入っていて(LP発売時のものと同じものなのだろう)、メンバーの誕生日や出身高校や身長、体重まで記載されているのが70年代初期を思わせておかしい。なんとなくニューミュージックっぽい扱いなのだが、ファーストは清志郎の声以外が全部スタジオミュージシャンのものに差し替えられたくらいなので、ホリプロのイメージ戦略みたいなものもあったのかも知れない(RCのメンバーが録音したファーストのデモテープはないのだろうか?)。
とはいえファーストからRCサクセションはRCサクセションであり、忌野清志郎は忌野清志郎以外の何者でもない。
「たまには一人で 何かやってみろよ/いつでもみんなといっしょなんだね」(シュー)、「たとえお客がいやな奴ばかりでも/ぼく達はいつもいっしょうけんめい/歌っています」(メッセージ)、「あの娘に会えない時は この娘に会おう/この娘に会えない時は あの娘に会おう/恋人が二人いると いつも幸福」(国王ワノン一世の歌)、「金さえあればこの世の物は/何でも手に入れられるのさ/幸福だって女だって金で買えない物はない」(この世は金さ)と挑発的だ。
そして「本当の事なんか言えない/言えば殺される」(言論の自由)と歌うのだ。
清志郎の誕生日は4月2日なので、あと一日早く生まれていればリンコさんや破廉ケンチと学年が違い、RCに繋がる「ザ・クローバー」は結成されなかったのかも知れない。
清志郎が亡くなってはや四十九日が過ぎようとしている。まったく個人的なことなのだが清志郎は僕の息子の誕生日に亡くなった。これからずっと、息子が誕生日を迎える度に、清志郎が死んだ日のことを僕は思い出すのだ。
https://lkv.kyo2.jp/e114336.html
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RCサクセション、忌野清志郎
Sat, 20 Jun 2009 11:09:18 +0900
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こんな夜におまえに乗れないなんて
「MARVY/RCサクセション」
いつの頃からか清志郎は自転車にはまって、今月の「BE-PAL」でも「ありがとう清志郎さん!あなたの旅は、ブルースでした」と追悼される始末だ。健康的でアウトドアな清志郎は、乗り物をセックスと絡めて歌にするのが得意だった清志郎のイメージとかけはなれている。
こんな夜におまえに乗れないなんて
こんな夜に発車できないなんて
「雨上がりの夜空で」
おまえのエアポートに着陸したい
ホラもう滑走路はこんなに濡れて
「スカイ・パイロット」
“バッテリーはビンビンだぜ”だとか、“エンジンの性能をためしてみないか”だとか、清志郎はわかりやすかった。
『MARVY』におさめらている「 SHELTER OF LOVE 」でも“いくら僕のマシンがよくてもだめさ”“ぼくをシェルターのなかに/入れて入れておくれよ/君のシェルターのなかに/入れて入れておくれよ”と歌うのだ。
70年代の売れない時代をどうにか生き延びた清志郎はRCサクセションを再生させるために、ステージ上では派手にメイクをして、誰よりも高くジャンプして、「愛してまーす」と叫んだ。そしてセックスをイメージさせるような歌を、これはいいアイデアだとばかりに歌わずにいられなかったのだ。
乗り物とは関係ないけれど、梅津和時率いるDANGERのアルバムにおさめられた「貴女のお嬢さんに」が好きだ。これもわかりやすくて何度聴いてもにやにやしてしまう。
貴女のお嬢さんによろしくお伝えください
息子が会いたがっています
この次お会いする時は草原のその奥に息子を
連れて行こうと思います。
ララララ……息子が会いたがって泣いてます
「貴女のお嬢さんに/DANGER」
やさしいピアノと清志郎の声にフリーキーなベースとホーン、ドラムが静かに絡み合う名曲なのだ。
https://lkv.kyo2.jp/e112172.html
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RCサクセション、忌野清志郎
Wed, 10 Jun 2009 03:12:01 +0900
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魔法の声
『ハートのエース/RCサクセション』
忌野清志郎の声は特別だ。その声はときに甘くやさしく響くのだが、実はひどく破壊的で、排他的でもあった。孤独な誰も寄せ付けない声をしていた。そんな風に聞こえる声を僕はあとひとり知っている。矢野顕子だ。
清志郎が歌えばどんな曲も清志郎のロックンロールになるように、矢野顕子が歌えばどんな歌も彼女の歌になる。ふたりともふたりにしかない魔法を持っていた。
矢野顕子はいろんな歌をカバーしているのだが、なぜかRCや清志郎の歌は残していない。「きよしちゃん」という歌まで歌っているのに・・・。
「湖のふもとでねこと暮らしている」はRCの「山のふもとで犬と暮している」のアンサーソングだといわれている。
湖のふもとで ねこときょうも暮らしている
あの山のふもとで 犬と暮らしてるあなた
いつか犬と二人で 帰らぬ旅に出ても
わたしきっと あなたを きっと好きでいるから
(「湖のふもとでねこと暮らしている」矢野顕子)
離れている時でも ぼくのこと
忘れないでいてほしいの ねぇ おねがい
悲しい気分の時も ぼくのこと
すぐに呼びだしてほしいの ねぇ おねがい
(「ひとつだけ」矢野顕子&忌野清志郎)
矢野顕子の『はじめてのやのあきこ』で「ひとつだけ」をいっしょにカバーしているのだが、清志郎は“わたし”を“ぼく”と言い替えて歌っている。清志郎の居ない世界であらためてこの曲を聴くとまた泣きそうになってしまう。
清志郎の死に際して、矢野顕子は「永遠に友だちです」というコメントを残していた。
https://lkv.kyo2.jp/e107223.html
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RCサクセション、忌野清志郎
Fri, 29 May 2009 22:34:50 +0900
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栗本薫も死んでしまった。
『OK / RCサクセション』
RCサクセションが『OK』をリリースした1983年に僕は中学3年で、『グイン・サーガ』を読み始めたのは確かその頃だ。それから25年以上がたったけど、まだ『グイン・サーガ』は終わっていない。そして永遠に終わることはなくなってしまった。
栗本薫が亡くなった。清志郎の死をまだぐずぐずと引っ張っているというのに・・・。
小学校のときからわりと本を読む子どもだったのだが、今もかわらず本を読んでいるのは栗本薫のおかげだ。『グイン・サーガ』だけでなく数々の伝奇ものやミステリー、初期のSFを夢中になって読んだ時期があった。また彼女はぼくらの期待に応え、つぎつぎと新しい本をリリースしてくれた。彼女の本を読んでいると退屈することがなかった。
『グイン・サーガ』は100巻を超えても終わることがなく、なんだか締まらない感じで続いている。またあの頃の熱を帯びた展開がいつか戻ってくるのではないかと、期待して読み続けてはいたけれど、正直、昔のようには興奮して読むことはなかった(あの龍頭がでてきてからおかしくなったのだ)。それでも、もう続きが読めないということは、とても残念でさみしいことだ。グインの豹頭に関する謎や、彼の花嫁が誰かということも、もう永遠にわからないのだ。
栗本薫はまだ56歳だった。70歳や80歳でも現役の作家はたくさん居るし、今のペースで年に6冊刊行だとまだ100巻は読める勘定だったのに・・・。
この頃、グインのあとがきを読んでいると、もういつ死んでもおかしくないような状況だった。彼女はその死を静かに受け入れているようにも思えた。それでも、やっぱり無念だったろう。もっともっと書きたかったはずだ。
今、ちょうど読んでいた深沢七郎の『余禄の人生』のなかに「生きていることは、ほかの人の死ぬことを知ることだ」と書いてあった。
生きている限り、ブルースは続くということだ。清志郎も、そう云っていた。
栗本薫の死も現実だということが、じわりと身に沁みてきた。
長い間、ありがとう。
https://lkv.kyo2.jp/e109132.html
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RCサクセション、忌野清志郎
Thu, 28 May 2009 00:42:00 +0900
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大空ひばりと清志郎、そして「こんなんなっちゃった」
『BEAT POPS / RCサクセション』
もしかすると僕が清志郎の名前をはじめて知ったのは江口寿史の『ストップ!!ひばりくん!』かも知れない。
81年の秋に連載のはじまった『ストップ!!ひばりくん!』のなかで大空ひばりが学園祭の朝にステージ衣装であらわれ妹のすずちゃんに“清志郎みたい”と言われるシーンがある(僕が今もっている単行本では1巻の真ん中あたりだ)。
坂本龍一との「い・け・な・いルージュマジック 」のリリースが82年2月。ベスト・テンにも出た「サマーツアー」が82年6月のリリース。まだ中学生だった僕はジャンプの方がずっと大切なアイテムだった。洋楽もほとんど聴いたことがなかったし、ベストテンに出るような歌手以外のことはよく知らなかった(最初にヒット曲以外の歌に興味を持ったのは戸川純だ!中学男子には清志郎よりも戸川純の方が切実だったのだ)。
その「サマーツアー」が収録されているアルバムが『BEAT POPS』だ。僕は90年頃、RCの活動20周年の一斉再発のときにCDを手にいれたのだが、僕の持っているRC、清志郎関連のなかで最も聴いた回数の少ないアルバムだ。ジャケットもテキトーな感じだし、音も軽い(当時のRCはけっこう音が軽い)。印象も薄い。
そういえば清志郎の詩集のタイトルにもなっている「エリーゼのために」がこのアルバムに入っているのだけれども、詩集の方が僕には印象深かったりする。表紙もいい。すごくいい感じだ。
久しぶりにこのアルバム引っ張りだして聞いていると「こんなんなっちゃった」で息子にヘンな歌と鼻で笑われた。
https://lkv.kyo2.jp/e108691.html
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RCサクセション、忌野清志郎
Mon, 25 May 2009 22:09:46 +0900
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コブラも悩むことがある
『コブラの悩み / RCサクセション』
『コブラの悩み』は抜群のタイトルだ。
コブラのもつ強く明確なイメージと当時の忌野清志郎やRCを取り巻く状況、そしてロックという表現が持つメッセージがうまく合致している。
『コブラの悩み』には『カバーズ』騒動のあとの日比谷野外音楽堂のライブがおさめられている。一曲目はバンドの「アイ・シャル・ビー・リリースト」のカバー。2曲目の「言論の自由」はRCの懐かしいナンバーだ。
1972年にリリースされた『初期のRCサクセション』におさめられている「言論の自由」や終盤に演奏される「あきれて物も言えない」を聴くと、このときの騒動が決して突発的なものでなかったことがわかる。清志郎は1970年前後にバンドをはじめた頃から、社会や権力と同じように戦っていた。そして、それを歌にして歌っていたのだ。
清志郎は感じたことを歌にして、好きな歌を歌う。社会のいろんな圧力を、歌によって軽々を飛び越えてしまう。それも本能的に。感覚的に。いわば思いつきで。(ちょっとしゃれになんないのにアルカイーダズなんてのもあってYOUTUBEで見ることができる)。
村上春樹がイスラエルで語った「壁」と「卵」の話しにあったシステムに対する違和感について村上春樹が小説を書くように清志郎は歌を歌うのだ。
『コブラの悩み』の最後に「君はLOVE ME TENDERを聴いたか?」の出だしだけ収録されている。その頃、清志郎がFM大阪で「夜をぶっとばで」という番組をもっていて、フルヴァージョンを流したことがあった。当然、エアチェックして永久保存のカセットテープに残して大事にしていたのだが、これもまたYOUTUBEで聴くことができるようになっている。5月2日以降いろんな清志郎がアップされているので、いろいろ見ていたら全然終わらない。
https://lkv.kyo2.jp/e108223.html
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RCサクセション、忌野清志郎
Sat, 23 May 2009 17:11:00 +0900
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マスクの集団と日本を支配するシステム
『カバーズ / RCサクセション』
大阪へいったらタイマーズの恰好をしたひとがたくさん歩いていた。
タイマーズはカバーズ騒動以降の清志郎が、自由に歌を歌い自由に活動するためにつくった覆面バンドだ(公式にはあくまでゼリーが首謀者だが・・・)。
清志郎の立ち振る舞いは冗談だか、本気なのだかよくわからず、きっとRCの他のメンバーは付き合いきれないぜと思ったのだろう(それはまもなくG2と新井田耕造の脱退、そしてRC解散へ続く道であった・・・)。
カバーズ騒動の発端である「ラブ・ミー・テンダー」は原発のことを歌いたかったのか、単に“ラブ・ミー・テンダー”と“何いってんだー”をかけたかったのかよくわからないが、当時の僕には洋楽に勝手に乱暴な歌詞をつけて歌うのがひどく新鮮だった。
『カバーズ』はいつものRCと違ってイレギュラーなパーティーアルバムのようなものだった。曲ごとにいろんなゲストがはいっているし、よく知られた曲ばかりをカヴァーするコンセプトはともかく、その選曲は節操もセンスもないように見えた。
でもその開きなおりが清志郎らしかった。
『カバーズ』収録のなかでは1曲目の「明日なき世界」が出色だ。あと、のちの東京FM事件につながる「谷間のうた」を共作した山口富士夫が参加している「黒くぬれ!」も好きだ(この頃の山口富士夫はティアドロップスをはじめたばかりで、村八分の伝説が最も喧伝されていたような印象がある)。
京都でも新型インフルエンザの感染者が確認されたので、タイマーズブームはさらに加速するはずだ。
でも、感染者が見つかった小学校が休校になるのはともかく、大学がのきなみ休校になっているのは、あきらかに変だ。過剰反応を超えてそら怖ろしくなってくる。日本を支配するおかしなシステムがまた動き出したみたいだ。
この支配から逃げなくてはダメだ。この無自覚に身を委ねると居心地のいいもやっとした空気に寄り添わないようにすること。清志郎が「Baby逃げるんだ」と歌うように。
https://lkv.kyo2.jp/e107802.html
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RCサクセション、忌野清志郎
Fri, 22 May 2009 00:10:00 +0900
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「私立探偵」と2・3'S
『FEEL SO BAD / RCサクセション』
清志郎の死からまだ間もないGWの最中にガケ書房へいくと清志郎の知らない曲がかかっていた。
ポップで愛嬌のあるメロディを持った曲を清志郎はテンポよく歌っていた。知らない曲だったので、最近のアルバムに収録されている曲だと思った。
ところが家に戻ってRCのアルバムを順番に聴いていると『フィール・ソー・バッド』にさっきの気になった曲が収録されているじゃないか。
その曲は「私立探偵」という曲だった。
清志郎が死んでから、キヨシロー、キヨシローといつまでも騒いでいるけれど、RCのアルバムを全部が全部よく聴いていたわけではなくて、実際にはもう何年も聴いたことがなかったアルバムも実はあった。
『BEAT POPS』や『BLUE』、『フィール・ソー・バッド』はそのあまり聴いてなかったアルバム群なのだが、なじみの薄いアルバムの中に「私立探偵」のようなお気に入りの曲を見つけると、また新鮮な感じでアルバムを聴けるようになってうれしい。
思いつき度満点、メンバーも手弁当的、勝手に格下扱いをしていた2・3'S の『MUSIC from POWER HOUSE』もよい曲(怒りに満ちた「FUCK YOU」や庶民を揶揄する「善良な市民」なんか)が多くて、いったい当時の僕がなにを聴き、何を聴かなかったのか総括しなければならなくなってくる。
清志郎の歌は僕に届いていなかったのだろうか?
https://lkv.kyo2.jp/e107307.html
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RCサクセション、忌野清志郎
Wed, 20 May 2009 00:26:00 +0900
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忙しすぎたから
フォーク時代のRCサクセション。セカンドの『楽しい夕べに』におさめられた曲はどれも名曲だ。特に破廉ケンチがメインボーカルをとる「忙しすぎたから」が好きだ。
作詞はリンコさんなのだが、破廉ケンチの声も悪くない。なにより曲の後半にバック・ボーカルではいる清志郎の声が僕はたまらなく好きだ。
“このごろはいつもだれも口をきいてきいてくれないから
ぼくはさみしくて気が狂いそう”
清志郎の声と、その声で歌われる歌詞とメロディもいい。絶妙のバランスで清志郎は切なさと狂気を孕んだ歌を歌うのだ。
清志郎の声はチャボの声ともよくはまる。『ティアーズ・オブ・クラウン』で演奏される「打破」で後半、チャボに呼び出される形で歌いだす清志郎のパートも背筋に電気が走って僕のバッテリーはビンビンになる。
「忙しすぎたから」が収録されている頃のライブを見たい。何年か前にロック画報という雑誌でRCサクセションの特集があったときに70年代初期の未発表ライブが6曲納められたCDが付いていた。
1.つまらない仕事(未発表曲)
2.ぼくとあの娘
3.忙しすぎたから
4.内気な性格(未発表曲)
5.もっと何とかならないの(未発表曲)
6.ぼくの自転車のうしろに乗りなよ
それはお宝の名に相応しい貴重でスリリングな演奏だった。もしかするとこの5年くらいの間で最も聴いたRCのCDかも知れないくらいよく聴いた。6曲といわず、ライブ全部を通した音源はリリースされないのか(この6曲のマスタリングを清志郎と破廉ケンチが担当していたのが不思議だったのだが・・・。なぜリンコさんではなく・・・。)?
不謹慎だけど、このタイミングにリリースしてくれないのかな?
https://lkv.kyo2.jp/e106893.html
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RCサクセション、忌野清志郎
Mon, 18 May 2009 23:37:00 +0900
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ヒッピーに捧ぐ
『シングル・マン/RCサクセション』
みなみ会館の映画上映を主催するRCSの会報が届いた。会報に忌野清志郎の死に関するコメントがはいっているのだがRCSの名前がRCサクセションに由来していると書いてあった。
RCSのひとも清志郎の歌に後押しされて、ずっと頑張ってきたのだ。
そういえば清志郎の描く歌詞はすごく映像を喚起させるものがある。わずか4~5分のポップ・ミュージックが2時間の長編映画のようにストーリーを感じさせる。
市営グランド駐車場に停めた車のなかの恋人同士が過ごした一夜の思い出を歌う「スローバラード」。悪い予感のかけらもないさ(不安に押しつぶされそうなのを抗っているようにも聴こえる)と、情感たっぷりに歌われる。
バンドマンとの恋の逃避行は「ラプソディ」。音楽が好きな高校生の日常を歌う「トランジスタ・ラジオ」。すべての労働者に捧ぐ格差社会先取りソングの「いいことばかりはありゃしない」。僕と彼女と友人お日隅くんのことを「去年の今頃」、「日隅くんの自転車のうしろに乗りなよ」、「ぼくの自転車のうしろに乗りなよ」の三つの歌もなかなかだ。
他にもたくさんたくさんあるのだけど、映画にしたいRCソングナンバー1ははやはり「ヒッピーに捧ぐ」だ。
いつもと同じ朝。かわらない日常。だけど友だちは死んでしまってもういない。それでも続くコンサート。死を受けとめるバンドマンとコンサートの対比が見事だ。ほんとに誰か映画にしないかな。主演は今なら断然、松山ケンイチだ。で死んでしまうのは峯田だ(逆でも可)。
RCの歌の映画化はともかく初期のRCサクセションから復活ライブまでを網羅するようなドキュメンタリー映画はいつかきっと作られるだろう。ジョー・ストラマーの『VIVA JOE STRUMMER』やイアン・カーティスを追った『JOY DIVISION ジョイ・ディヴィジョン』のように。ディランの『ノー・ディレクション・ホーム』のように(続編はいつ?)。
そんな映画、今観たら泣いてしまいそうだけど・・・。
そういえば僕は未見なのだが、ラフィータフィー時代のライブを追ったドキュメント映画『不確かなメロディー』があったはずだ。今度レンタル屋さんで探してみよう。みなみ会館で追悼上映はしないかな?
https://lkv.kyo2.jp/e106238.html
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RCサクセション、忌野清志郎
Sat, 16 May 2009 00:51:00 +0900
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トランジスタ・ラジオ
『PLEASE / RCサクセション』
はじめて清志郎をみたのは坂本龍一とやった「いけないルージュ・マジック」だった。そのあとベストテンで「サマーツアー」がランクインしているのをみたのだけど、小学生だったので、どっちかっつーと怖かった。
中学3年生の頃から洋楽を聴くようになって、日本のロックにも興味をもつようになり再びRCサクセションにまみえることになる。で、それから高校時代を通じていちばん馴染みの深かったナンバーが「トランジスタ・ラジオ」だ。
とにかく地方都市ですらない何もない田舎町にレンタルレコード店はあったものの、ちゃんとしたレコードプレーヤーを持っていなかった僕はラジカセだけが音楽に触れることができるかけがえのない機械で、週間FM(当時はFMの番組表と音楽情報メインのFM誌が数誌出ていた。週間FMには清志郎が『忌野旅日記』を連載していた。今でもかわりのないタッチの絵が文章に添えてあった)で曲目を確認しつつ、とにかくいろんな曲をエア・チェックしていた(もちろんベスト・ヒットUSAとMTV、ポッパーズMTVは見逃さなかった。でもうちにはビデオがなかった・・・)。
「サウンド・ストリート」と「クロス・オーバー・イレブン」。そして平日の夕方に小嶋さちほがDJをしていた番組とか、地方局のリクエスト番組(RCの曲で“ベイビー”と云わない曲として「不思議」がかかったのを覚えてる)があって、カセットテープに録音して気に入った曲をダビングしていた(ダブルカセットだったのだ!)。
その頃の香川に民放のFM局はなくて、やたらクラシックばかりかけているNHK-FMだけが僕の音源だったのだが、もしかするとその頃がいちばん自由にいろんな音楽に触れていたかも知れない。
「トランジスタ・ラジオ」のように屋上での甘い思い出はないのだが、ベイエリアや リバプールから届くナンバーに僕は耳をすまし、ちっとも開かれているように思えない未来に不安になったりした。でもそんなときも清志郎の声はいつもポジティブで僕にもなにかが起こせそうな気がしたのだ。
https://lkv.kyo2.jp/e105595.html
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RCサクセション、忌野清志郎
Tue, 12 May 2009 22:09:55 +0900
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バンドマン、歌ってよ。
『RHAPSODY / RCサクセション』
バンドマンとしての清志郎が好きだった。
そして僕にとって清志郎=RCサクセションであり、決してRCサクセション=清志郎ではなかったので、清志郎の新しいバンドにはピンとこないまま10年が過ぎ、さらにこの10年はCDすら持っていない始末だ。20年前のRCの解散をぐずぐずと引きずっている悪いファンのひとりだった。
“バンドマン、歌ってよ”と歌われる「ラプソディー」が収録されている久保講堂のライブ盤はRCのライブ盤の中でも特別だ。なにしろRCの黄金期を支えたメンバーでの「よォーこそ」が収録されている。バンドのメンバーを順番に紹介していきながらライブはいきなり最高潮を迎える。メンバー紹介を歌にして、しかもメンバー全員が最高だぜ、ごキゲンだぜと自画自賛しながらシャウトする忌野清志郎は素敵すぎる。
新井田耕造とGee2woが抜け、『Baby a Go Go』のリリースされた後、RCは活動停止になるのだけれども、すぐに活動を再開すると思っていた。ところが1994年になって清志郎とチャボの『GLAD ALL OVER』がリリースされた。RCの曲を清志郎とチャボで目いっぱい演奏している。そこにはリンコさんの姿すらなく、RCの解散を決定事項になったのだと思うしかなかった。そのときも大きな喪失感があった。
その『GLAD ALL OVER』でも「よォーこそ」が演奏されている。サポートメンバーの中には大好きなKYONもいたのだが、なんだか腑抜けたテンションで何回聴いても僕は盛り上がれなかった。あれこそバンドのマジックだったのだ。清志郎だけでなく、チャボが居て、リンコさんが居て、新井田耕造が居て、Gee2woが居て、梅津さんも居て、それでメンバー間で大きな化学反応が起こっていたのだ。その化学反応こそがロックンロールなのだ。
週末もずっとRCのアルバムばかり聴いてました。僕の追悼はまだ終わっていません。
https://lkv.kyo2.jp/e104492.html
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RCサクセション、忌野清志郎
Mon, 11 May 2009 20:59:28 +0900
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僕たちには忌野清志郎がいた
『Baby a Go Go / RCサクセション』
かってアントニオ猪木と藤波辰巳の試合で古館伊知郎は「ビートルズはお兄ちゃんのものだった。 安保には間に合わなかった。僕たちには何もなかった。 しかし、アントニオ猪木がいた」と実況した。
僕が音楽を聴き始めた80年代前半には「ビートルズはもうなかった。ストーンズは決して来日できなかった。ボブ・ディランはよくわからなかった。クラッシュやピストルズには間に合わなかった。僕たちには何もなかった。しかし、忌野清志郎がいた」のだ。
忌野清志郎は少年のようなシャイネスと童貞のようなナイーブさをもっていた。同時に大人のしたたかさとずるがしこさも持っていた。さらに幼児のように残酷でもあった。そしてそれらを全部ユーモアで包むこともできた。
ロックの神というよりは悪魔なんだけど、天使のようにイノセントな笑顔で笑うことがあった。世間のしがらみや重力から徹底的に自由でありながら、社会的な存在でもあった。
あの声とあの歌で、大きな愛で包みこみながら、おまえ自身はどうなのだと鋭く追及した。
かって世界は単純で「RCを聞いているか?清志郎が好きか?」でいろいろなことを判断することができた。仲間と敵を見分けるのは簡単だった。
「大人だろ 勇気をもてよ」と清志郎は歌ったのだが、僕は勇気を持っているのだろうか。
https://lkv.kyo2.jp/e104640.html
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RCサクセション、忌野清志郎
Sat, 09 May 2009 00:13:00 +0900
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お別れは突然やってきて。
清志郎が死んだことをキャンプ場のテントの中でさっき知りました。
愕然とし、そのあと茫然とし悲しい気持ちで胸がいっぱいになっています。
たとえひとの死が不可避なものだとしても突然の訃報は一方的で僕の中から大切なものを奪っていきました。
次第に夜が明けてきてテントの中も明るくなってきました。すぐそばを流れる川の音が変わらずに聞こえきます。
やっぱり涙がでそうです。
https://lkv.kyo2.jp/e103501.html
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RCサクセション、忌野清志郎
Sun, 03 May 2009 05:26:53 +0900