京つう

音楽/映画/写真  |左京区

新規登録ログインヘルプ


にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村 音楽ブログへ
にほんブログ村 地域生活ブログ 京都情報へ














ジオターゲティング


QRコード
QRCODE
インフォメーション
【京つうからのお知らせ】
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 1人
プロフィール
オーナーへメッセージ

スポンサーリンク

上記の広告は、60日以上更新がないブログに表示されています。
新たに記事を投稿することで、広告を消すことができます。  

Posted by 京つう運営事務局 at

2009年07月28日

よそ者


『BLUE / RCサクセション』

“俺たちよそ者”と歌われるとき、俺たちとは清志郎とRCと僕のことだった。

昔、僕はひとりぼっちだった。でもRCやいくつかの音楽を聴いているときや本を読んでいるときはひとりではなかった。

音楽を聴くことや本を読むことはひとりでする行為だけど、その行為に没頭しているときは決してひとりではなかった。音楽や本が僕の心の奥に届いたとき、現実の関係や軋轢、周囲の時間から僕は自由になった。自由だけどひとりではなく、その表現を通じて僕は世界と繋がっていた。

もしかするとそれは現実からの柔らかい逃避でしかなかったのかも知れないけれど、僕は、僕が選んでその時間を過ごすことができたので、今もこうして息をしていられるのだ。


“何から何まで君がわかっていてくれる/僕の事すべてわかっていてくれる/上から下まで全部わかったいてくれる”
「君が僕を知ってる」

“地べたに落とされて/すべてをはがされて/逃げまわらなきゃならない時/かくまってくれるかい?ぼくを/ベッド・ルームだけのsの部屋に/かくまっておくれよ/ぼくには何にもできない/ぼくには説明できない”
「共犯者」


僕は弱虫で泣き虫でナイーブな子どもだった。その頃は、そういう自分をネガティブな感情でしか捉えることができなかったけれど、僕は弱虫で泣き虫でナイーブな子どもだったから、清志郎の歌に出会うことができたのだ。

清志郎が死んでしまっても、その歌が世界を縁取り、今も清志郎の声が、僕の感情の底で静かに流れている。


ところで「よそ者」で唐突に歌われる“けむる港町”というフレーズがロックっぽくなくていつも気になってしまいます。いわゆるロック的な言葉からも清志郎は自由だったのだと肯定することもできるかも知れないけれど、やっぱりおかしいよな。